旅順 2007

2月22日、10月4日

 
2007年2月22日(平野君)
 
旅順へは往復とも、市電202路線に沿って、星海から「旅順南路」で行った。
 
途中、龍王塘から温泉プール「水上人間」を過ぎたところで、三叉路を左側の海岸道路に入った。
私の記憶では、外国人は海岸線には入れない(この先に軍港があるから)
劉君に戻るよう注意し、先ほどの三叉路を右折して、山間部に進む。
しばらくして、「東鶏冠山景区」への入口の看板を発見。
 
入場料20元
 
私は大便がしたいので、陳列館前の便所に行ったが、鍵が掛かっており入れない。
係員もいないので、探し回っていると、ズッと向うに旧式便所らしき建物が見える。
生理現象はどうにもならない!我慢して用を足すしかなさそう。しかし、

「急いで済ませないと誰か来るかもしれない」と言う、恐怖でなかなか出てこない。
とてもあせった!終った頃に外で、女性の声が聞こえる。
外に出ると、2人の若い女性がワイワイ言いながら、トイレに入っていった。

ファッションモデルのようなスタイルの良い若い女性が、3Kトイレで用を済ませている図はなんとも滑稽であった。

彼女達の自宅は多分、水洗トイレでしょう!
しかし、ここのトイレは多分、彼女たちの子供の頃と同じでしょうから、我慢できるかも?

かく言う私も、子供の頃は借家に住んでおり、もちろん便所は汲み取り式の共同でした。

 
まずは「日露戦争陳列館」に入る。
 
劉君は初めてらしく、展示物や写真を食い入るように見つめていた。
友人は感動の面持ちで、壁面の写真や陳列品などを全て、細かく撮影していた。
 
旅順港実戦配置模型図
 
 
何度も見た激戦の跡ですが、何度見てもその凄まじさに驚かされます。改めて、詳しく写真に納めました。
 
ロシア軍の隧道跡
 
覗き窓目掛けて撃ち込まれたおびただしい弾痕。日本軍の攻撃の凄まじさを物語っている。
 
頑強に抵抗したロシア軍を撃破した突破口
 
 
 
 

慰霊塔(向うの山頂にもトーチカがある)

   
近くに機関砲が置いてある。
これは本来、日本軍を迎え撃つロシア軍の物であるが、なぜか中国製であった。
こんな風ではなかったか?といった、適当な設定だ!
 
階段には様々な押し絵が描かれている。

続いて、道標に従って203高地に向ったが、行けども行けども入口の看板が現れない。
私の記憶でもこんなにも奥まったところではない。引き返して、自転車に乗った村人に尋ねる。
本通りからわき道に入らなければならないようだ。わき道には何の標識も無い。
不親切極まりない、こういうところが中国式である。

楊さんがチケットを買ってくれた。
ただ、霧がまた深くなって、景色がぼんやりしてきた。これはダメかも(^レ^;

入場料30元

頑丈で立派な案内板が出来ている 

 
駐車場はガラガラ。我々のほか誰もお客さんはいない。楊さんは車で待つという。
いつものように、駕篭かきが100元100元と叫びながらやってきたが、不要了!無視して登る。
 
友人は車生活のためか、足腰が弱い。途中で息せき切っている。
劉君と私は構わず進む。やはり見通しは悪い。海はまったく見えない。残念だ!!
 
とにかく寒い!客も我々だけだ!時刻はお昼を少し回った。
売店のおばさんが2人、店開きの準備をはじめた。
分厚い写真集を買えと言う。が、早々に退散。
 
この対空砲横(写真には写っていない)には、
ヘルメットなどが用意され、
記念写真が撮れるようになっている。
なんと!商魂たくましいことか(^レ^;
昔の登り口階段横にはいつの間にか砲台が設けられ、
大砲が2門置いてある。 これは歴史的史実なのであろうか?
はたまた単なる観光なのか? 理解できないことが着々と進んでいる。
 目的はなんなのであろう??
 
この説明板の向うが旅順港であるが、まったく見えない。残念である。
 

帰り道は観光ルートにはなっていない?、ロシア軍の塹壕を見ながら、山を下り、
ここで戦死した「乃木保典」の碑を参拝して帰る。
ただ、数年前来た時は、当時そのままに荒れ放題の山肌と塹壕であったが、
今回では山道も塹壕も石で組み立てられ、きれいに整備されていた。

乃木保典(やすすけ)は1904年2月勃発した「日露戦争」の司令官「乃木希典」(のぎまれすけ)の次男である。
彼は1904(明治37)年11月30日ここ203高地で敵弾に倒れる。

ここで、ロシア兵は数千人、日本兵は1万人以上が死んでいる。
当時、この山肌には屍が累々と折り重なっていたことであろう。
南妙法蓮華経!南妙法蓮華経!南妙法蓮華経!

   

友人は感嘆あるのみであった。

お昼をかなり経過している。腹が減ってきた。昼食をどこで食べようか?
この辺りは私のほうがよく知っている。2年前に来た時、「水師営」の前にうまい店があることを思い出した。
デコボコ道をガタゴト行ってみたが、水師営は開業していたが、食堂はお休みだった!残念!

この辺りにはレストランは無い。星海あたりまで我慢するかと、思っていたら、 楊さんから「旅順南路」沿線に美味しいレストランがあると言う。 彼女は行ったことがあるようです。そこに決まり!

 
再び、旅順南路を引き返す。途中海岸線を走行中、
消防自動車の出動と出くわした。
道路わきで立ち止まって、海岸を見ると真っ黒な煙が立ち昇っている。
ついでに海を撮影したが、水平線の画像が乱れている。なぜか?
203高地では霧が深く立ち込めていたが、
今(午後1時頃)では完全に晴れている。

しばらくして、屋根の上で作業している人々が目に入る。家の修復?解体?

車の量が減った辺りで、劉君が車を路肩に停めた。
「どうしたの?」と尋ねると、楊さんが運転すると言う。
楊さんは最近、運転免許証を取得したのです(^O^)

車は持っていませんから、もっかペーパードライバーです。
今日の車は借りたものですから、傷でもつけたらたいへんです。
交通量の多い街中では危ないが、この辺りならいいだろうと、劉君は判断しました。
困ったものだと思いましたが、中国国家運転資格基準の水準を確認するため、楊さんに命を預けることにしました(^レ^;

楊さんに運転を代って、5分もしないうちに目的のレストランが見えてきた。運転の技量も分からないまま、はい!それまでよーー!大笑い(^O^

レストランは反対車線だったが、旅順南路は片側2車線の広い通りであるから、そのままUターンすればいいのであるが、なぜか右側路肩に停めて、劉君と交代。 どうしたの?Uターンできないの? これで、楊さんの運転技量も分かってしまった。 お疲れ様でした(^レ^;

ここは来る時、珍しい建物があるなー!と感心したところであるが、実はレストランであった。

時刻は午後1時を少し過ぎている。が、お客さんの車で一杯だ。
店の名前は「世外桃源」shiwai-taoyuan すなわち、「桃源郷」という。
緑色に塗られたシンボリックな屋根があちこちに建っている。
季節によってはここでも休憩できそうだ。
 
お客さんでごった返す店内は、春節ムード一杯です。ガラス屋根のレストランはとても明るい。
真ん中に大きなだるまストーブが置いてある。今日は温かいから、不要である。
運良く、ちょうどテーブルがひとつあいた。
 
私と楊さんは友人と劉君を置いて、裏のほうにある生簀に料理の素材を注文しに出かける。
さすが港町「旅順」です。新鮮な魚介類が所狭しと並んでいる。
スープを含め、豚肉・鶏肉、魚など適当に5,6点注文。
さらに「ヒラメ」を一匹、生き作りとして注文。
 
友人が撮った楊さんと劉君(劉君は前歯が折れているので写真はいやだという)
 
ヒラメの生き作りを食べた後、例によってこれを「唐揚げ」にしてもらったが、ベタベタした出来栄えにがっかり。残念!

デザートは地元産のリンゴであった。リンゴは小さく、色もあまりよくない。
店内のあちこちに段ボール箱に入って、無造作においてあり、食べ放題だった。が、あまりうまくはない。

料金は4人で175元だった。

記念写真

2007年10月4日(出口君)

ホテル前でタクシーを拾う。女運転手だった。
が、地理は大丈夫かな?確認したところほぼ
了解。が、これが問題だ った!

料金は一日いくらではなく、メータにした。いろいろ交渉するのが面倒くさい。
ただ、これだと道に迷った時の無駄な走りも全て払わなければならない。
楊さんは「いいですか?」とわたしに目配せしたが、私は
OKとうなずく。

星海から旅順南路で行った。
途中、龍王塘から水上人間を過ぎたところで海岸道路に入ろうとしたが、ここは楊さんも既に学習済みだ(^O^)、運転手に右方向をうながす。

しばらくして目的地の看板あり。東鶏冠山景区と203景区である。
2月は東鶏冠山景区が先であったが、後の203高地へ行くとき道に迷ったので、今回は203高地を先にした。
結果的には後先関係なしに、今回も大いに道に迷うこととなった(^レ^;

 
 

203景区(入場料@30元+車両通行料10元)

 
駐車場では例によって、駕篭かきが群がってくる。
日本語の堪能な高齢ガイドが寄ってきた。前回と同じ人だ。日本人向けのサービスである。
時刻は10:40頃。観光客もチラホラ。駕篭かきが100元100元と駆け寄ってくる。

楊さんはタクシーで待つ。二人は坂道を歩き始める。駕篭かきがうるさく付きまとう。
私は必要ないが、出口君は上まで歩くことは、多分無理だ。
駕篭かきをやっとの思いで振り切って、後を見ると、案の定出口君は駕篭に乗っていた。
ヤレヤレ(^O^)

私は一足早く登りきる。一向に来ないので、しばし待つ。

出口君を乗せた駕篭かきは不運である。
90
Kg近い巨体を2人で約500mくらい上るのであるから、それはもう地獄である。
やってきた。駕篭かきはヘロヘロだ。

これで100元は安い(^O^)。出口君に「料金を払った?」と尋ねると、途中で休憩したとき、駕篭かきがチップチップというので120元払ったという。馬鹿なことをしたものだ!

しかし、出口君はえらそうな彼らを見て可愛そうになったのであろう。駕篭かきはさっきもらったのはチップで駕篭賃ではないという。ばかか!!私達は駕篭かきに支払済みだと手を振りながら、立ち去った。

駕篭かきもそれ以上は追いかけてこなかった。

記念写真(1眼レフ)

今回は砲弾をかたちどった記念塔の落書きが気になったので調べた。
よくよく見ると、「山」の字がボコボコに凹み歪んでいる。不心得者がよじ登って叩いたようだ!
ロシア語で書かれた落書きは一見すると最初から彫りこまれたもので落書きではないように思えた。
が、よく見ると極めて丁寧に刻まれた落書きであった。

   
   
いつもはこの後、すぐにロシア軍の塹壕跡に向ったが、今回は高台へ足を運んだ。
ここにも新しく、戦争の記念品が置いてあった。

ここは重砲兵用観測所である。説明板にはこう書かれている。

「1904年12月、日本軍は二○三高地を占領した後、すぐそこに重砲兵用探り所を設置したことにより、
重砲を指揮して旅順口港へ猛烈な攻撃を行い、港に停泊したロシア軍艦を殆ど日本軍の砲火に 
打ち壊された。重砲兵用探り所は日本軍がロシア軍海軍の力に打撃を加え、ロシア軍陸上防御線
を粉砕して最終的にロシア軍を打ち負かしたことにおいて重要な役割を果たした。」

ここにはもう一枚の説明板<日本式280mm榴弾砲>が設置されている。

説明板にはこう書かれている。

「二○三高地争奪戦で日本軍は口径の異なる大砲を六十台余り使用して、高地に対して狂気じみた無差別爆撃を加え、全部で一万一千発以上の砲弾を撃ったが、そのうちに280mm榴弾砲砲弾が2254発あった。当該大砲は本体の重さが10.753トン、砲弾の重さが217Kgで射程が7800mだった。」

説明板の榴弾砲がこれだ!

この後、ロシア軍の塹壕跡を見ながら、乃木保典戦死跡経由で駐車場に帰る。

203高地を出て、もとの道に出るところを、間違って相当に迷った。外人が入れない中心街に入ったようだ。勝利塔やロシア監獄跡などの前を通って、道を尋ね尋ね進む。

が、一向に東鶏冠山景区の看板が現れない。
看板があって喜んでその方向進むが、先には何もない(^レ^;
尋ねた道もいい加減で、尋ねるたびに行ったり来たりさせられる。

と、ちょうど同じ東鶏冠山景区へ向う、観光客を乗せたタクシーに出会う。後についていく。
この間かなり回り道をした。タクシーメータは容赦なくカウントする。少し余分に払うことになりそう。

 グルグル回り道して、やっとの思いで入口らしきゲートに到着。が、いつもとは違う入口だ!
運転手が外国人は入れないと小声で言う。しかしここ東鶏冠山は何回も来ているので問題ない。
楊さんに入場券を買ってもらい、電動ゲートが開いたと同時に素早く入場し、走りすぎた!

東鶏冠山景区>(入場料@20元+車両通行料10元)

入場券が2月のときと違う。

2月のときの入場券は今日入ったゲートの図柄であった。

まず、日露戦争陳列館。前回平野君はすさまじい記録に衝撃を受け、陳列館内の写真をすべてデジカメに納めていた。出口君も同じく、学校では教えてもらっていない日本軍とロシア軍決戦の記録を食い入るように見ていた。

歴史のある一時期、不幸にもこのような事が起こったことを忘れず、
このことを教訓として将来に生かすことを誓う。

東鶏冠山景区は2月より大幅に整備されていた。いままで見ることの出来なかった奥のほうも見学コースとなった。
激戦の後を示す銃弾の跡は平野君同様出口君にも衝撃を与えた。ただただ驚きの一語であった。

入口階段下には新たに巨大な壁が建築されていた。みんなここを背景に記念写真を撮っている。
写真中央前方に見学コースが作られた。まだ入場禁止であるが、2月には柵がしてあった。

今回は激戦の銃弾跡はさらりと通り過ぎ、高台の北堡壘を丁寧に見学。
2月には無かった説明板も整備された。

このトンネルは2月には無かった見学ルートである。

ロシア軍司令官コトラキンカ少将戦死の所

「コトラキンカ戦死の地」説明板

「1904年日露戦争が始まった後、日本軍は東鶏冠山北堡壘を奪い取るために、129日間続いた堅壘攻略戦を展開した。12月15日20時前後、陸軍防衛司令コトラキンカ少将が堡壘司令部に来て軍事会議を開催した情報を日本軍は獲得したので、重砲で激しく砲撃し、砲弾の一枚が司令部に当たり、コトラキンカはその砲撃で死んだ。戦後、日本軍はここで「コトラキンカ少将が死んだ場所」石碑を樹立して、その「大きい度量」と赫々(かくかく)たる戦功を誇示した。」

ロシア軍堡壘司令部跡>この辺りは2月では、まだ見学コースではなかった。

全てが迷路のような塹壕でつながっている。

帰りはスムースに帰れた。星海の昼食場所「薫肉大餅」まえでタクシー下りる。
タクシー料金は320元で予定より安かった。一日貸切よりこの方が後腐れなく、明朗会計でよいと思った。

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