3月20日>中国6日目

成都滞在

 工場見学 ⇒ 都江堰 ⇒ 武侯祠

朝、部屋の窓から小雨降る外を見る。

朝食のとき、みんな寒くて眠れなかったとぼやくことしきり。

私はトイレに何度も起きたが、「寒くて眠れない」ということはなかった。

ただ、下痢気味のため、おかゆと少々のおかずだけにした。

百草丸を3錠、水は危険なので、おかゆで飲む。

北京、西安と4日間、朝食を食べてきたが、なぜかゆっくりと食べてこなかった。
今日は中国の典型的な朝食について、献立を紹介してもらった。
 
主食は3種>おかゆ、中華パン、中華揚げパン>毎日同じものではなく、日によって変える。
飲み物は2種>白い牛乳、茶色のコーラ(中国式にコーラとはおかしいよ!)
おかずは5種>野菜、つけもの、・・・・・・。たまごは高いそうで、一般家庭では食べられないという。
 
昨日、たくさん土産買ったので、元がない。
ホテルのフロントで2万円兌換する(3回目)
レイトは20.987円/元とさらに円が減った。
 

 
今日最初の訪問先へ向う途中

工場見学

午前は成都市内の自動車工場を見学。ここは1.5トントラックを生産していた。
今回の訪中団員の会社に、この会社から研修生がきているので、大歓迎でした。
ただ、雨降り後で、工場内は舗装されていないので、足元がグチャグチャ。
生産ラインは人力による搬送であった。
 

 
市内から60Km離れた「都江堰」へ向う途中。

鉄道成都駅のロータリーで大きな酒の看板をみる。
この銘柄はホテルの部屋においてあったものと同じだ<文君酒>

 
人と自転車と車が入り乱れて、たいへんな混雑状態。なかなか前へ進めない。

 
都江堰はかなりの郊外にある。そこまでの街道を紹介します。

 
人里を離れると、空から見た「菜の花畑」がずっと続く。

 
再び人家が現れる。屋根には瓦が!

 
再び菜の花畑の街道を両側に見ながら走る。
墨絵のような街路樹が延々と続く。
途中、三叉路の正面に2人の立像が立っている。
彼らは2200年前、成都周辺の田畠を潤すための
治水施設「都江堰」を作った「李親子」像

 

 
15年後の2008年5月12日、
四川省汶川で起こったM8.0の大地震で被災した人々がここに避難している。
 

 
どこまで行っても街並みは変らない。北京も西安もみんな同じ。
しかも、人と自転車と車の同時通行も同じ。

 
さらに、3輪自動車、サイドカー付オートバイ、自転車タクシーなどなど縦横無尽に走り回っている。

 

 
昼 食
 
すさまじい爆竹の音は結婚式だ!が、新郎新婦の顔は見られなかった。

 
ウエートレスが並んで笑顔でお出迎え(^O^)
中国語の挨拶を教えてもらい、しゃべるがなかなかピンと通じない。

 

都江堰

都江堰は市の北西60Kmほどの「岷(山偏に民)江Min Jiang」の上流にある大規模な水利施設。

紀元前3世紀の秦代に蜀郡の官吏「李ヒョウ(氵さんずい偏に水)」が息子とともに、氾濫を繰り返す岷江の治水に注力した。工事は李親子の死後、数世紀も続いた。
この都江堰は2200年後の今日も成都平野を潤している。

 
都江堰付近
 
どこから入ったのか解らないが、南方特有のきらびやかな寺院を見ながら目的地「都江堰」へ進む。
左から、侯さん・傳さん・劉君
   
階段通路の両側にある門の上にはこのような石碑がよく見られる。
四字熟語のようであるが、日本の辞典には載っていない。

廊下に「深淘灘低作堰」とある。意味は?  
   
究極の屋根芸術  
 
   
李ビョウ記念館で都江堰の概要について勉強する。
ここには模型や昔の風俗や地形などが解説されている。
   
傳さんが指差しているところに我々はいる。これから、あの橋を渡る。
 
少しずつ下って行く。
 
二王廟は李親子を祀っている。
創建が南北朝(紀元500年ころ)でその後、清代(1800年頃)に再建されている。
階段の両側に虎と龍の文字が墨書きされている。
 
 
どうやらここが出口のようだ!
 
   
出口を出ると前方下に川が流れている。
ふと下を見ると、子供がしゃがんでいるところを発見。オシッコだーーー!
みんな大はしゃぎでオシッコの現場を見物。でるぞー!でるぞー!でたーーー!
あんまりわーわー騒ぐので、子供に上目遣いでにらまれた。
終ったら、そのまま立ち上がって、お母さんのところに走っていった。

中国の赤ちゃん用のパンツはお尻が開いていて、しゃがむと開いてそのままオシッコもウンチもできる。名前は「開襠褲」kai1 dang1 ku4>カイダンクという。

対岸の起伏のある丘にはロープウエーがある。
 
岷江にたどり着いた。ここに、「安瀾橋」(あんらんきょう)である。
この橋は宋代(1100年から1200年頃)に創建された。
   
橋を渡り、中洲を堰のほうに歩く。堰はここから上流500mくらいのところにある。
途中、ゴミ箱や観光用のらくだが何頭かいた。
   
ここから都江堰全体が見えます。堰は段階的にいくつもある。ここが第1の堰です。
左側が本流で、右側が灌漑用の水路で、田畠に送られる。今の時期は灌漑用が多くなっている。
いただいた写真  

都江堰周辺観光図

我々は右上の山から「二王廟」を通り、「安瀾橋」を渡り、ここ都江堰まで歩いてきた。
 

 
帰り道にエアーライフル射撃場があったので挑戦せり。前方の布に貼り付けてある風船を割る。
1回2元という法外な料金に思わず大きな声でクレームつける。
日本から来た賓客だ!とか言ったが、負けてくれなかった。
 
 
ロープウエー
丘の中腹に点々と見えるのがゴンドラです。
ここも堰です。目的に応じて切り替えるようです。
米作り時期には田んぼの方向へ、それ以外は住宅地方向へ。

 
堰を切り替える作業所  

向うにロープウエー
 

武侯祠

三国志の主役「諸葛亮(孔明)」(生誕181年)と、主君「劉備玄徳」(生誕162年)を祀った「君臣合廟」

劉備が「三顧の礼」で諸葛亮を軍師として招いたのは劉備48歳、諸葛亮27歳のとき。
劉備は諸葛亮の「天下三分の計」とおりに蜀を手に入れたが、関羽の弔い合戦で破れ、
逃れた後、病にかかった。駆けつけた諸葛亮に後を託して死ぬ。

諸葛亮は劉備を「昭烈皇帝」として稜を造り葬った。

その諸葛亮も234年、五丈原で戦病死する。53歳だった。

武侯とは諸葛亮(孔明)のことで、武侯祠とは諸葛亮を祀って建てられたもの。
唐代(6世紀初め)に離れた場所にあった武侯祠を劉備を祀ったこの場所(昭烈廟)に移した。
現在の武侯祠は17世紀に再建されているが、明代(14世紀末)に劉備が合祀されている。

 
武侯祠の入口正面上部に「漢昭烈廟」と書かれた横額が掲げられており、ここが「君臣合廟」であることが解る。
時刻は閉館間近の16時頃。

折角やってきたのであるから、関係者を説得して急いで拝観することに決定。

入場します。
   
入場門を振り返る。 文臣廊>文官の紹介
   
文臣廊に入って、いきなり長大な漢文が目に飛び込んできた。

楊さんが声高に説明し始めたが、さっぱり解らない。
しかし、この作者が「岳飛」yue4fei1と聞き、目を凝らすことになった。題は「稜出師表」とある。内容は説明できないが、とにかく長文です。

まずはWindowsフォトストーリー3を使っ たビデオファイルをご覧ください。岳飛 (長さ45秒、サイズ558KB)

但し、写真サイズが320X240なので画面が大きいと画像がぼやけます。

 

現物は左から右に 流れている。それを分割して上から下に掲示します。
最初は読み易い書体であるが、これが徐徐に崩れている。どうしてなんでしょう??

 
なぜ、私が「岳飛」を知っているのかというと、1989年5月から1年間、私の職場に研修生としてやってきた、中華全国青年連合会青海省副主席の「李津成」から聞いたのでした。
「岳飛」はほとんどの中国人が憧れる「愛国の将」

南宋の武将。字は鵬挙。高宗に仕え、江淮の賊を討伐し、「精忠岳飛」と記した旗を受けた。
金軍を破って功をたてたが、金と内通した秦檜(しんかい)に謀殺された。
岳飛(1141年没)の墓は杭州西湖畔の岳王廟にある。「岳飛」(広辞苑から一部抜粋)

 

 
私が研修生「李津成」から教えてもらったのは、
満江紅」man3jiang1hong2の「怒髪衝冠」nu4fa4chong1guan1であった。

下の「満江紅」はどちらも、李津成が書いたものです。
が、左側の研修中のメモ用紙に書かれたものは、右の段に間違いがあると言って、
後日正式に書き直してきたものが右側です。

左側は簡体字ですが、右側の正式なものは昔からの文字(繁体字)です。
左側の枠で囲った「怒髪衝冠」は私が後で追加したもので、ふりがな(ピンイン)は李さんです。

 

以下に読み方を紹介しましょう。
怒髪衝冠とは
、「激しい怒りのため髪の毛が逆立って、かぶっていた冠を突き上げるさま」です。

 

怒髪衝冠           nu4fa4chong1guan1
憑欄處              ping2lan1chu4
瀟瀟雨歇           xiao1xiao1yu3xie1
擡望眼              tai1wang4yan3
仰天長嘯           yang3tian1chang1xiao4
壮懐激烈           zhuang4huai2ji1lie4
三十功名塵興土 san1shi2gong1ming2chen2yu3tu3
八千里路雲和月 ba1qian1li3lu4yun1he2yue4
莫等閑              mo4deng3xian2
白了少年頭        bai2le shao4nian2tou
空悲切              kong1bei1qie4

靖康耻              jing4kong1chi2
猶未雪              you1wei1xue3
臣子恨              chen2zi3hen4
何時滅              he2shi2mie4
壮志飢餐胡虜肉 zhuang4zhi4ji1can1hu2lu3rou4
笑談渇飲匈奴血 xiao4tan2ke3yin4xiong1hu2xue3
駕長車踏破       jia4chang2che1ta4po4
賀蘭山缺           he4lan2shan1que1
待従頭              dai4cong2tou2
収拾旧山河        shou1shi2jiu4shan1he2
朝天缺              chao2tian1que4

意味はしばらくお待ちください。
とりあえず、単語の意味を調べてみました。
これで全体を推測してください。無理かな(^レ^;

怒髪衝冠           怒り心頭の詩
憑欄處              ping2(頼る)lan1chu4(欄干)
瀟瀟雨歇           xiao1xiao1(水が深く清いさま)yu3xie1(雨がやむ)    
擡望眼              遠くを眺める
仰天長嘯           xiao4(うなる)
壮懐激烈           zhuang4(雄大)huai2(ふところ)
三十功名塵興土 chen2yu3tu3(ちり、ほこり)
八千里路雲和月 (歳月の長さか?)
莫等閑              mo4(だめ)deng3xian2(普通)
白了少年頭        少年は白髪となり
空悲切              悲しみはむなしく空を切る

靖康耻              jing4kong1(すこやか)chi2(恥)
猶未雪              you1(〜のようである)
臣子恨              chen2zi3hen4
何時滅              he2shi2mie4
壮志飢餐胡虜肉 hu2(でたらめ)
笑談渇飲匈奴血 xiao4tan2ke3yin4xiong1hu2xue3
駕長車踏破       jia4chang2che1ta4po4
賀蘭山缺           he4(祝)que1(不足)
待従頭              dai4cong2tou2
収拾旧山河        shou1shi2jiu4shan1he2
朝天缺              chao2tian1que4(気絶する)

回廊には左右に官吏の塑像が並んでいる。右側が文官、左側に武将である。
 
途中で今回案内役の楊さんと同姓同名の文官がいる。位は当時の成都市長のようです。 続いて、今度は傅さんの祖先がいた。照れ笑いしながら、記念写真。
   
続いて、左右に関羽と張飛を配した、劉備玄徳の塑像が現れる。
 

 
続いて、諸葛亮の「武侯祠」に入る。
正面奥のオレンジ色に輝いている像が諸葛亮である。
「一枚の羽毛が永遠に漂う」と言う意味で、ここの「一羽毛」とはもちろん諸葛亮のことです。
 
諸葛亮殿入口の伽藍に「名垂宇宙」の横額が眼に留まる。
「諸葛亮の名は宇宙に轟き渡っている」という。至言である。
 
さすがにここには警備員が配置されている。
諸葛亮にあやかりたいと、ほぼ全員ここで記念写真を撮る。
 
外に出て改めて諸葛亮殿を振替えると、雑草が生い茂る屋根が見えた。中国にはこのような老朽化した文化財が至るところにある。これらの修復には膨大な金がかかり、たいへんである。 続いて劉備の墓へ向う。

出口の看板は英語、日本語の3ヶ国語だ。
しかし、日本語のカタカナはちょっとおかしい?

 
ちょっと歩きます。
 
このような横額が全ての出入口に掲げられている。
 
劉備の墓碑には乾隆帝が書いたと言われる「漢昭烈之陵」がかかっている。
 
しかし、ここに入場した時刻が遅かったので、墓陵をゆっくり見ることが出来なかった。残念!!
出口
 

 
夜は四川省主催の歓迎宴が「四川賓館」で行われた。庭が素晴らしい。
 
今回は食卓テーブルの写真は撮らなかったが、素晴らしい階段踊り場で記念写真を撮った。
私といえば、下痢も止まり、少し食べれた。
 

 
食事の後、全員再び昨日行った通称「掛け軸通り」の夜店へ出かける。
色紙12枚追加で購入。
 
今日は思いがけず、李津成君を思い出した。
ホテルに帰って、早速青海省に電話したが、通じなかった。
これで17、18、19、20日と4日間不通である。いったいどうなっているのであろう!!

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